le gastronomique de chien


#3

1-2 犬肉食の文化

1-2-3 朝鮮

1-2-3-1 歴史

 朝鮮では,犬を食べることは特に意識されることなく普通に食されていたようであった.高句麗時代の1145年に編纂された『三国史記』によるとソウルでは犬が数多く飼育されていた(35).さらに,李氏朝鮮時代になり,崇儒主義の政策が実施されると,周への復古主義へと向かうことになった.そこで,儒教の学者たちも,孔子も犬を食べたとの理由で犬食に大した抵抗感ももたず犬を食べたのである.よって,1600年台後半の『飲食知味方』などの料理書では犬料理の記述は大きな割合を占めている.

 1800年代中葉の『東国歳時記』では三伏(36)の頃には身分の上下を問わず犬の汁物を好んで食していたという記述が見られる.このことは,体を温めるために冬場に犬を食べる支那の場合と異なり,体力が落ちる夏に滋養をつけるために薬食い(37)的に食べていたものと考えられる.

 その後も連綿と犬食の伝統は受け継がれ,現代の朝鮮でも犬料理はさまざまな形があるがその点については後節で述べることにする.

1-2-3-2調理方法

 基本的には支那と同様,肉そのものに臭いがあるので臭い消しとなるものを使用する場合が多い.犬料理の具体例として,

a.ケスンデ (狗肉の腸詰)
 −肉を細かくし,胡椒・山椒・生姜・胡麻油・醤油などと混ぜ,捏ねたものを腸を表返したものに詰め,甑にいれてゆっくり蒸す.
b.ケジャンクツヌルミ (狗肉の汁)
 −犬を熱湯でゆがき,骨を外す.熱湯を入れ替えて再び肉をいれ,煎り胡麻・醤油を加えて煮る.汁は小麦粉・胡麻油・醤油を合わせ,肉と一緒にする.最後に刻みねぎを散らす. c.狗醤〜ケジャン (狗肉のスープ)
 −肉と内蔵をよく洗い,釜に入れる.醤油・胡麻油・煎り胡麻・山椒を加えて煮る.

などがある(38).この他にも「狗肉の串焼き」や「狗肉の蒸し物」などがあり,また支那と同様に黄色の犬が美味とされているので別に黄色の犬を煮る方法が確立されている(39).

 朝鮮の犬料理には胡麻を使用するなど,支那の犬料理の影響が見られるが,支那と違い,朝鮮の犬料理の特徴は,山椒や醤油を使用し,極力臭いを押さえようとする点にあるといえよう.おそらく,犬の臭いを好む広州地方から犬料理が伝来する際に,犬の臭いに不慣れな北方民族系の住民を経由する際に料理にこのような臭い消しの要素が付加された,とも考えられる.

1-2-4 その他の地域

 その他の地域では,アフリカ内部におけるニアム・ニアム族の一部のマングベツ人は家犬を肥育してその肉を食している.また,南アメリカのインディアン,特にペルーの原始民族は犬肉が非常に好物であったというような例があるが(40),どちらの地域も記録がほとんどなく,さほど一般化した習慣ではなかったようだ.

1-3 日本における犬肉食

1-3-1 歴史

 676年(天武天皇4年) 4月17日に我が国で肉食禁止令の詔が初めて下った.その詔は,

庚寅,詔諸國曰,自今以後,制諸漁獵者,莫造檻穽,及施機槍等之類.亦四月朔以降,九月卅日以前,莫置比彌沙伎理・梁.且莫食牛馬犬@鷄之宍.以外不在禁例.若有犯者罪之.(41)

というものである.

 この詔は,犬だけでなく牛,馬,猿,鶏の五畜の肉食を禁じているが,その理由は「犬は夜吠えて番犬の役に立ち,鶏は暁を告げて人々を起こし,牛は田畑を耕すのに疲れ,馬は人を乗せて旅や戦いに働き,猿は人に類似しているので食べてはならない」という『涅槃経』の教えによったものらしい(42). とはいえ,その肉食禁止は恒久的なものでなく,期間が4月1日から9月30日までの農繁期に限定されている.裏を返せば農閑期は肉食を行ってもまったく問題がなく,また農繁期であっても五畜以外の動物の肉は食べてもよいということである.すなわち,この肉食禁止令は仏教に基づく肉食禁止ではなく,農繁期における家畜の利用という功利的な視点に基づいて出されたものであろう.もっとも,当時の生活様式は稲作を基盤としていたので,御歳神の伝承(43)などによる農耕儀礼を重視した結果としての肉食禁止と考えることも可能ではある.が,いずれにせよ,絶対的に肉食が禁忌として見なされていたとはいえないことは確かである.それは,その後も肉食禁止令が繰り返し出されたにもかかわらず,いずれも一時的なものであり,肉食の禁止が徹底しなかったことでも推察される.

 中世に至っても肉食の絶対的禁止はなされてはおらず,古代・中世を通じて包括的な肉食禁止の禁忌はなかったと見られるが,仏教思想の敷衍により肉食の否定につながっていく側面も否定できない(44).また,神道においては1487年に成立した『神祇道服忌令秘抄』で「四足物食用之事.鹿猪猿狐里犬ハ七十日憚之.合火ハ五十日.又合火ハ卅日也.此日限神社へ參詣スベカラズ.」(45)とあり,服忌を70日間の長期に設定している.このことからも,犬を含めた肉食を一定の禁忌としているようであるが,裏を返せば服忌期間を過ぎれば神社に参詣してもよいことになり,また日常生活での肉食については触れられていない.この外にも数多くの服忌令が出されており,肉食が穢れであるとの思想は完全には定着しなかった可能性が高い.

 16世紀末に日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは日本の犬を含めた肉食習慣について「日本人は野犬や鶴,大猿,猫,生の海草などを食べる」と著し,肉食が日常化していたことを物語っている.また特に犬肉食については「われわれは犬は食べないで,牛を食べる.彼らは牛を食べず,家庭薬として見事に犬を食べる」(46)と論及しており,当時の日本人は精力を付けるための薬食いとして犬を食べていたようだ.

 犬食がどの程度行われ,またいかなる地域で行われていたかは詳らかではないが,ほぼ全国的に行われていたと思われる.

 江戸時代最古の料理書『料理物語』(47)によれば,「いぬ すい物.かひやき」として調理すべしとあり,貝類と一緒に焼くような調理法があったようだ.また『料理物語(魚菜文庫本)』(48)では,跋文の後に食物の格付けが記されており,獣類の中に「中食の分」として「狗肉」との記述が見られる.

 江戸時代では,犬肉は主に薬食いとして冬に保温・滋養のために食されていた.それも特殊な機会に食されるものではなく,ごく一般的日常的に,また身分の上下を問わず食されていことは

「我等若き頃迄は御當代の町方に於て犬と申ものはまれにも見當り不申候若たまさか見當り候へは武家町方共に下々のたべものには犬に増りたる物は無之に付各冬向になり候へは見掛け次第に打ちころし賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」

と記されている大道寺友山の『落穂集』にも明らかである(49).すなわち「犬が居たとすれば,『これ以上のうまい物はない』と人々に考へられ,直ぐに食はれてしまふ」ような状況であったのである.また,小塚原や鈴ヶ森などの刑場にいた人足は常食にもしていたという(50).

 しかし,明治以降は太平洋戦争後の食糧難の一時期をのぞいて,記録はほとんど見あたらない.それ以降犬を食べる風習が残っている地域は,独自の文化を保ち続けた沖縄しか見あたらず,それも常食にはしていない.

1-3-2 調理方法

 犬料理についてはアイヌ料理では犬は熊と同様にたたきにし(51),鹿児島ではかつて「エノコロめし」という犬飯があった(52)といわれている.また,地方は特定されていないが,映画『気違い部落』(53)の中に犬肉を調理する場面があり,ここでは鍋に砂糖と臭い消しのための焼酎を入れて煮て,醤油をつけて食べるという方法を用いている.

 さらに,沖縄の宮古島にも犬を食する習慣がある.ここでの調理法は犬汁である.灰汁が多いのでこまめに灰汁とりをし,弱火で煮る.味噌で味付けをして,蓬をいれて食べる(54).ここで特徴的なのは宮古の犬汁の調理方法が,朝鮮の「ケジャンクツヌルミ(狗肉の汁)」の醤油を汁のベースにしている調理方法と異なり,支那の広州料理の「折骨生燉狗」の味噌を使用した調理方法と類似していることである.これは,沖縄,かつての琉球王国が古くから支那に朝貢して文化交流があったことに由来すると見てよいだろう.犬汁を食べる時期も,ふさ病(風土病であるフィラリア),内臓疾患などの万病の薬としての薬食いの他に,一般人は寒い季節に滋養食として食べる(55)など,冬に犬を食べる支那と同じであることからもこのことは裏付けられると考える.

 犬料理においても日本本土とは違った独自の文化を伝えるアイヌと沖縄にその色合いが残っているといってよいだろう.


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