川端康成『みづうみ』における《トルコ風呂》についての考察

はじめに

 川端康成『みづうみ』の冒頭、主人公・桃井銀平が軽井沢でトルコ風呂の香水風呂やサウナに入ってミス・トルコと呼ばれる湯女にマッサージしてもらう場面がある。これについて、「ミス・ソープが」「ソープランドで」と記述された感想文がネット上で散見される。

 そもそも性的なサービスを提供する個室浴場の呼称ソープランドは、1980年代中盤にトルコ人留学生の訴えによりトルコ風呂から公募により改称されたもので、川端康成存命時には存在しない。「小説に記述されている“トルコ風呂”はすなわち“現代のソープランド”だ」と単純に考え、「現代においてトルコ風呂という単語は不適切用語だから言い換えなければいけない」という《善意》でこういった書きぶりになるのだろう。筆者はトルコ風呂の歴史とテクスト解釈からこの言い換えに強い違和感を感じた。

“トルコ風呂”のルーツ

 本邦のいわゆる“トルコ風呂”のルーツは、1951(昭和26)年に東京・銀座6丁目に開業した「東京温泉」と言われている。東京温泉のトルコ風呂は中近東のハンマームに着想を得たもので、飲食施設やキャバレー、麻雀クラブなどを併設した複合娯楽施設であったという。かんじんのトルコ風呂はサウナ、蒸し風呂、垢すり、マッサージが主体で性的なサービスは行われなかった。

 一方、当時はGHQの公娼廃止指令以降もまだ特飲街、赤線といったエリアで合法的に売春の営業が認められていた。トルコ風呂が現在のソープランドのように性的なサービスを中心に据えるようになったのは、おおむね1958(昭和33)年の売春防止法施行による赤線業者の業態転換、娼妓・酌婦の流入と考えてよい(★1)。

 現在、ソープランドは建築基準法、風俗営業法、各地方自治体の条例などにより立地が厳しく制限されているが、その多くは旧赤線地帯に存在しているのがその証左だ。なお、石井輝男監督の『白線秘密地帯』(新東宝、1958年公開)は、赤線廃止によってアングラ化した赤線業者と刑事との攻防をテーマにしたドキュメンタリータッチのアクション映画で、当時の状況がよくわかる。

 ひるがえって、『みづうみ』は1954(昭和29)年1月から雑誌『新潮』に1年間にわたって連載され、単行本として出版されたのは翌1955(昭和30)年。作品内における主人公・桃井銀平の行動時期は周囲の描写から川端執筆時とほぼ同時代と読み取れるので、前述の時代背景を鑑みると「軽井沢のトルコ風呂」は、性的サービスの提供をもっぱらとする現在のソープランドとは趣が異なり、東京温泉と同様のハンマームに近いトルコ風呂だったと考えるのが自然ではないだろうか。

軽井沢にトルコ風呂は存在したのか

 いずれにせよ、実際に軽井沢に“トルコ風呂”と呼ばれる施設は存在したのだろうか。結論を先に述べると、存在した。

『軽井沢文化遺産保存』サイト「ノーベル文学賞作家・川端康成が軽井沢を舞台(題材)にした小説「みづうみ」とトルコ風呂」ページには、トルコ風呂の宣伝用マッチ箱が資料として掲載されている。場所はマッチ箱に記載されている「旧道つるや旅館裏」、つまり旧軽井沢銀座に現存するつるや旅館の裏側、現在「水車の道」と呼ばれる通りに存在したと推察される。
https://blog.goo.ne.jp/karabori2483/e/b55ee536f9842c032fb7e33c96618bd7

 なお、上記ブログオーナーはおそらく下のオークションを落札したのだろうと思われる。
https://aucfree.com/items/e339195673

東京温泉の進出

 次に、軽井沢に存在したこの“トルコ風呂”は現在のソープランドと同等の性風俗産業だったのだろうかを検証してみよう。宣伝媒体ともいえるマッチ箱の絵柄には、スチームサウナから首を出している客と接客するミス・トルコが描かれており、これがセールスポイントのサービスであることは一目瞭然。これは『みづうみ』のトルコ風呂の描写と同一だ。マッチ箱に「割烹 木の実庵」「バー・喫茶」といった併設飲食施設の記載があることからも、銀座にあった東京温泉同様の複合娯楽施設であったとみてよい。

 以下は当時の軽井沢をめぐる『週刊朝日』のルポの引用だが、実際に東京温泉が当地にトルコ風呂を開業していたようだ。前述のマッチ箱に記載された連絡先電話番号には「Ginza」と添え書きされているので、マッチ箱は進出した東京温泉が経営するトルコ風呂のものとみてよいだろう。

東京温泉乗出す

 望月圭介氏(★2)の元別荘だった建物に、いま大工が入って、建て増しの最中である。できあがるのはトルコ風呂三つ 七月からここで東京温泉が開業するという。

 秋田、山形から募集した百名のサービス・ガールがすでに東京では養成中だそうだ。

「軽井沢にふさわしくないようなことはしません、と東京温泉の人が了解を求めてまわりましたが、あんなものが軽井沢にできるようになつたのは、やはり時代ですナ。ドンドン石炭を焚いて煙をはかれると、高原の空気が汚れますよ」

 と、土地の人はなげくのである。

 素晴らしい高官の別荘が風呂屋に化けるのいうのは、変わりようも特別な方だが、これほどでなくつても、軽井沢の別荘はずいぶん変つた。

(原文ママ)

 

—「揺れる“基地軽井沢” 避暑地前奏曲 東京温泉乗出す 何でも貸します」『週刊朝日』1953-6-28, p.4

—出典「週刊朝日1953 揺れる基地軽井沢②」『資料/フロム・ザ・モルグ』https://mita-archives.com/from-the-morgue/2019/08/22/nikkyo-02b002/

 地元民のコメントをみても、性風俗産業の進出による別荘地の風紀の乱れではなく、浴場に必須であるボイラーの煙による大気汚染を気にかけており、東京温泉側の「軽井沢にふさわしくないようなことはしません」という説明からもこのトルコ風呂が現在のソープランドのような性的なサービスを目的にしたものでないことがはっきりと読み取れる。

 川端康成は、旧軽井沢にある万平ホテル北側に位置する「幸福の谷」と呼ばれるエリアに別荘を構えていた。その北西1kmほど——徒歩で散策がてら訪れることもできる距離につるや旅館は位置しており、川端がその裏にあったトルコ風呂と附属する娯楽施設に赴く機会があったことは想像に難くない。たとえ、実際に訪れていなくても人づてにその話を耳にすることはあっただろう。

作品におけるトルコ風呂の解釈

 さて、『みづうみ』に話を戻すと、単行本化にあたって川端は連載初出時にあった作品末尾を削除している。削除された部分では、桃井銀平が水木宮子から奪った金を懐に忍ばせて信州の温泉場を逃避行し、温泉旅館をチェックアウトしてバスに乗るところで完結している。

 初出をテクストとしてみた場合、軽井沢のトルコ風呂から始まり、信州の温泉場で幕を閉じる物語の円環構造において、桃井銀平の人生を中心に物語の時系列をおおまかに整理すると、みずうみのほとりでの父の死、やよいとの交流から、娼婦の生んだ赤ん坊を友人・西村と娼家に返却、玉木久子の尾行・交際、街娼との接触、水木宮子の所持金を奪取、町枝の尾行、長靴をはいた街娼との接触、軽井沢から信州への逃避行——となる。

 物語中、幾度となく女性への情念・妄執の発露が繰り返されるが、逃避行に終始する“軽井沢・信州編”においてはそれは回顧にとどまっている。軽井沢のトルコ風呂とミス・トルコはあくまで回顧・妄想を引き出すためのきっかけでしかないので、このトルコ風呂に対して実質を伴った性的なサービスを提供するソープランドと解釈するのはやはり誤読ではなかろうか。

 時代背景を知らずに安易に作品中の単語を言い換えるのは、東京温泉が運営していたようなトルコ風呂を性風俗産業と決めつけ、あまつさえ当時軽井沢において性風俗産業が営まれていたと歴史を書き換えるにとどまらず、それが事実であるかのように広めてしまう著しく問題のある行為だと考える。もちろん、それが作品の意図を損ねる危険性があるのは論を俟たないだろう。

★1 ただし、それ以前からも一部で手技などによる性的なサービスを行うことがあったようだ。

★2 望月圭介(1867年4月1日‐1941年1月1日):逓信大臣、内務大臣を歴任。