朝,起きたらすでに9時を過ぎていた。10時出航の与那国島行きのフェリーに乗る予定で,港も宿に近いこともあって余裕を持っていたら,いつのまにか時間ぎりぎりになってしまった。離島桟橋の売店でじゅーしー(かやくごはん)のおむすびと缶のお茶を買って,乗船券売り場まで行くと「急いでください。船がもう出ます」と言われた。与那国に行くフェリーの乗船場は離島桟橋とは若干場所が異なるので,脱兎のごとく船に向かうとすでにタラップは岸壁から離れていた。係員がタラップをたぐってくれ,それに文字通り飛び乗ってなんとか事なきを得たが,まさに間一髪だった。
乗船した福山海運の「フェリーよなくに」は週2便石垣‐与那国間を往復しており,所要4時間。当時は日本トランスオーシャン航空のYS-11のフライトが1日2便あったので,便数が少ない上に時間のかかるフェリーに乗船する人間は少ないと思いきや案外乗船客がいた。石垣周辺の珊瑚礁にある西表島や黒島などへ高速船で行くのとは異なり,外海に出るのでやはり船も揺れ,珍しく気分が悪くなりかけた。
余談だが,旅行の計画を立案中,離島航路についてはドック入りなどの予定を確認する必要があり,利用すると思われる各海運会社に電話で運行予定を問い合わせた。有村産業などは沖縄の本社と内地の営業所の言っていることが正反対だったりとありがちな応対だったが,この「フェリーよなくに」で与那国路線を運営する福山海運はなかなかおもしろい応対だった。
筆者「11月上旬頃,ドック入りの予定はありますか」
福山海運「うーん,ドック入りねえ。今のところなんとも言えないんですけど…。
まー,確かなことは言えないんですけどね,たぶんドック入りはないと感じとるんですわ」
ドック入りの有無を「感じる」?!。「わからないと答えるのもなんだし,今までの経験からおそらくこの時期にはドック入りはないだろう」と推察してあのような回答になったのだろう。この後,友人間で「〜と感じとるんですわ」というフレーズがちょっとした流行となった。
曇天の中,海の色がエメラルドグリーンから紺碧へと変化し,与那国島が石垣島周辺の諸島とは隔絶されているのがわかる。与那国島が次第に左舷に見えてくるが島の周囲は断崖で,確かにこれでは絶海の孤島となるのも想像に難くない。久部良港に入港する際も,西崎の荒々しい断崖が目に飛び込んでくる。
港に到着するといろいろな民宿の人間が名前を紙に書いて出迎えにきており,筆者も予約した宿の女将の車に乗り込んだ。与那国島の民宿は祖内・久部良の両部落に存在するが,大半は久部良から数キロ離れた祖内にある。島内にはバス路線もあるにはあるのだが,便数が極端に少なくほとんどあてにはできない。タクシーも台数がすくなく,距離の離れた部落間の移動には結構な金額になる。ということで,このように民宿に送迎してもらう必要がある。
宿に到着し,荷物をおろして島内観光に出かける。送迎の途中で見かけた泡盛の工場でも見学してやろうと,のこのこ敷地に入ってみる。「工場」といっても赤瓦の民家然としており,表の看板と泡盛の匂いがなければ工場と気がつかないかもしれない。建物の中に入るとおばさんがいるので,「見学させてくれ」とお願いすると,工場の中をくまなく案内してくれた。
甘い米麹の香りがぷわあんと充満した工場で,蒸留機から出てきたばかりの泡盛を飲ませてもらうと非常に強い。聞けばアルコール度数は60度だという。しかし,たいへんに美味で一挙に虜となる。これは与那国島名産の花酒「どなん」で,「花酒」とは高いアルコール度数のため,水割りをすると白濁することから名付けられたらしい。
販売しているのはアルコール度数60度・43度・28度の3種類。「60度以外は全部60度を水で割ってるだけ」とのことで,60度を買うのが賢明,と教えてもらった。この日はすでにおおかたの生産量を瓶詰めしたらしく,原酒はほとんどなかった。おばさん曰く「明日おいで。そうしたらもっといっぱい飲ませてあげるから」。ちなみにアルコール60度の泡盛は与那国島のみの生産で,「どなん」のほかに「よなぐに」「舞富名」の銘柄がある。
レンタバイクを借り,島内を巡ることにする。まずは久部良バリ。悲惨な歴史をもった場所なのだが,野生馬(与那国馬)が一頭いたのでそいつをフレームに入れて久部良バリの写真を撮ろうとすると,尾籠な話だが突如その牡馬の陰茎がにょきにょきと伸長し始めたので撮影を断念した。観察していると,どうやらその馬は尿意を催したためそのような現象を兆したらしく,生理現象を処理するとたちまち萎縮してしまった。歴史を背負った場所であるにもかかわらず,筆者の記憶の中では久部良バリは永遠に馬の伸長した陰茎と放尿のイメージが優先するだろう。
次にティンダハナに行き,祖内部落を一望する。比川部落に行こうとすると,前方に高校生(中学生?)数人を荷台に乗せたトラックが走行していた。だいたい荷台に人を乗せて走行するのは道路交通法違反ではないか,と思いつつ近寄ってみると,男女生徒とも風体が「Bebop High School」でタイムスリップしたような奇妙な感覚に襲われた。男子生徒は単ランにボンタン,女子生徒は聖子ちゃんカットに長いスカート。
後で聞いた話では,与那国島ではその3年ほど前から民放のテレビ放送が始まったらしく,それまでは基本的にNHKと台湾の放送しか受信できなかったそうだ。おそらく情報が途絶しているのが原因で,1990年代半ばであっても1980年代のカルチャーが残存していたのだろうが,少なくともここ3年はダイレクトに情報が入ってきていたはずだし,雑誌などの媒体もあるはず。それとも柳田国男の方言蝸牛説のように,今頃1980年代文化が伝達されたのか。かつて持ち込まれた文化が,他と隔絶されているがゆえに,独自の文化として熟成された,というわけでもなさそうだ。いずれにせよ,情報とはなにかを考えるにはなかなかおもしろいケーススタディではある。
結局比川へは行かず,途中の牧場などをみて祖内に戻り,進路を東にとって東崎(あがりざき)に向かう。雨が降り始めたので雨具を着用する。悪天候のせいか,東崎に着いても人の姿は見えず,野生馬が草をはんでいるだけだった。晴れていれば,断崖の下に見える紺碧の海と,青い空と,牧場の緑のコントラストが美しいのだろうが,あいにくの天候なので早々に引き上げ,踵を返し島の反対側にある西崎(いりざき)に向かう。祖内と久部良の間に位置する製糖工場のあたりで雨がやみ,与那国空港を右手に眺めつつ久部良港に到着。そこからさらに坂道を上り,西崎の展望台に至る。この坂道は自転車ではちとしんどいだろう。晴れた日には台湾が望めるという西崎だが,海・空ともに重々しく陰鬱な色合いで,南国らしからぬ風情だった。
バイクを返却し,いったん宿に戻る。夕食は外食するつもりだったので,ひとまず部落内をうろうろするが,どこに飲食店があるのかよくわからない。おまけに見つけても,18時ごろだとまだ開店していないときている。そこでいったんスーパーに行って店内を冷やかすことにした。離島ゆえか品揃えはあまりよくなく,ちょっと大きい売店のような感じだが,そこはさすがにスーパーなので客もぽちぽちいる。レジスタ係の女の子に「このあたりで夕食をとれるようなところはありますか」と訪ねると,さっきまだ閉まっていた店を教えてくれた。「さっきはまだ開店していなかったけど」と言うとわざわざその店に電話をかけてくれ,「もう開いているそうです」と親切に教えてくれた。
さっくりと夕食を済ませ,部落内を散歩がてらぶらついていたら,提灯を持った一団が太鼓を叩きながら近づいてきた。よく見るとなにやら派手なかぶりものを身にまとったりしている。どうやらお祭りらしく,部落中を練り歩いている。あとで民宿の人に聞いた話によると獅子舞の一種のようなものだそうだ。おそらくシッティ祭(節祭)だろう。散歩も適度に切り上げ,民宿に戻る。
テレビに台湾の放送が映ると聞いていたのでチャンネルを合わせると,ノイズが入るものの確かに映る。台湾では少数民族対策で画面に中文の字幕が入るので,だいたいの内容は漢字を読めばわかるのだ。バラエティ番組はどこか日本のそれと雰囲気が似ている。番組の途中で「日本からのゲストです」と紹介されていたのでだれかしらんと思えば,手品のナポレオンズだった(台湾でレギュラーをもっていたらしい)。それも見ているこちらが当惑するほどの歓待ぶりだ。
途中のコマーシャルなどもなかなかおもしろく,台湾のそごうのCMが頻繁に流れていた。チャンネルを変えると,吹き替え+中文字幕でアニメの「一休さん」が放映されていた。バラエティ番組が終わり人気ドラマと思われる番組が始まったので,日本の放送波に切り替える。ちょうど映画が始まったところなので見てみるが,これがまたつまらない。なぜ日本最西端の島でこんな映画を見なけりゃいけないんだ,と思いつつ最後まで見てしまった。その映画は『集団左遷』。いまだに与那国島のことを思い出すと『集団左遷』のことも思い出し,レンタル店で『集団左遷』のビデオを見かけると与那国島を思い出す。まったく罪な映画である。